第八話 青年インカ(7)【 第八話 青年インカ(7) 】 かくして、翌日深夜――。 いよいよ、脱獄決行の夜である。 トゥパク・アマルは、さりげなく、巡回に来る牢番たちの顔ぶれを確認する。 昨晩担当であったリノやセパスが非番であることは予測の範囲内であったが、今夜、回り来る番兵の顔ぶれは、全く見知らぬ者たちばかりであった。 早くも、あのアレッチェが強引に番兵の総入れ替えを行なった結果なのだが、そこまでは知らぬトゥパク・アマルとはいえ、昨夜のセパスの発言もあいまって、アレッチェが脱獄を危ぶんで采配を振るいはじめていることは十分に予測がついた。 (この様子では、今宵の決行のチャンスを逸すれば、後は無いも同然。 決して、失敗は許されぬ――!) いつにも増して鋭利な眼差しのままに、彼は、当初からの計算通り、粗末な食事のたびに密かに取り置いておいた油分を潤滑油として、足枷と鉄鎖とを金鋸で完全に切り離していく。 切断作業は、金鋸を外界から入手した直後の早い段階から要領を実験ずみであり、また、既に途中まで切断作業を進めていたため、さして手間取ることなく、順調に鉄鎖は切断されていく。 そして、鉄鎖が切断されたその瞬間、トゥパク・アマルの身は、ついに、足枷から完全に自由になった。 同様に囚われている妻ミカエラや息子たちは、女・子どもと侮(あなど)ってか、さすがに牢内での足枷まではされていないことを、リノに確認済みであった。 が、もし、必要であれば、予(あらかじ)め決行日をリノの居る夜に定め、彼を通じて金鋸をミカエラたちにも回す心積もりもできていた。 足枷から晴れて自由になった体は非常に身軽に感じられ、もともと幾多の戦場を戦い抜いてきた強靭で逞しい武人でもある彼は、今、かつての己の中に宿っていた力強いエネルギーが、再び、全身に熱く沸き立つ感覚を激しく覚えていた。 漆黒長髪に縁取られた美貌にも、今は、いかにも武人らしい精悍で男性的な輝きが漲(みなぎ)っている。 彼は、既にアドベ(日干しレンガ)を抜き取って貫通させた地下水路への脱出経路を確認した後、素早い手つきで外見的には元の土壁状態に戻し、それから、足枷から自由になったその足で鉄格子の入り口まで移動した。 鉄格子の一部が、そのまま格子の嵌(は)められた出入り口になっており、そこに重々しい西洋錠(註:現在の南京錠と同形のもの)が取り付けられ施錠されている。 足枷によって牢の一隅につながれていた際には、牢の出入り口や錠前に届くことすらできなかったため、今まで鍵の構造を吟味することなどかなわなかった。 だが、足枷を断ち切った今なら、番兵の巡回する合間を縫って、じっくりと構造を調べることができる。 そうなれば、錠を破ることとて、不可能ではないはずだ。 かつてリノを通じて外界から入手し、既に先端を鋭利に研ぎ澄ませた二本の頑強な針金が、今、彼の懐に、しっかりとしのばされている。 時刻は、まだ深夜0時を回ってはいない。 (焦らずともよい…。 落ち着け……) トゥパク・アマルは己自身に内面で語りかけると、錠前に真っ直ぐ意識を集中させた。 彼は鉄格子の隙間から両腕を差し出して、鉄格子ごしに、後ろから念入りに錠前を調べた後、思慮深い横顔で頷いた。 (正面から確認できたわけではないが、外見上は、いかにも牢獄の房を封じるに相応しげな仰々しい錠前という印象だ。 だが、実際の造りは、一般的な西洋鍵と、さして大きく変わったものではないようだ) 彼は懐中時計を見て番兵の巡回時間を算段すると、懐から二本の鋭利な針金を取り出した。 そして、そのうちの一本の先端を指で挟むと、90度の角度に折り曲げる。 それから、再び鉄格子の間から錠前に腕を伸ばし、先端を折り曲げた針金を、鍵穴から錠前の奥まで差し込んだ。 牢の正面に回って鍵穴の中を視覚的に覗けるわけではないため、彼は己の全神経を、いっそう、その指先の感覚のみに集中させる。 やがて、鍵の内部で、針金の先端部が金具のようなものに引っ掛かる手応えを得た。 (―――!!) トゥパク・アマルは真剣な眼差しで、折り曲げた針金の先端を手応えのあった部分に引っ掛け、ゆっくりと回転方向に回していく。 やがて、ある一定の位置で回転が止まった。 再び、鋭利な視線で、足元の懐中時計を確認する。 (まだ巡回時間までに、間はある…!) 彼は、昂(たか)ぶりはじめた気持ちを落ち着けるために腹まで深く息を吸い込むと、沈着な面差しに戻り、針金を持つ褐色の指先にさらなる神経を集中させた。 先ほど回転の止まった位置に針金を保ちながら、今度は、やはり指先からの感触のみを頼りに、予め先端を鋭利に研ぎ澄ませておいた二本目の針金を鍵穴から差し込んだ。 鍵穴を正面から覗き込めたら、どれほど作業が楽だろうか。 だが、鉄格子の向こう側を向いている錠ゆえ、そうもいかない。 さすがのトゥパク・アマルも、無意識のうちに、唇を噛んでいた。 今は、指先の感覚に全神経を集中させるのみである。 すると、間もなく、差し込んだ二本目の針金の先端が、錠内のピン状の金具に当たる手応えを得た。 (!!…――) トゥパク・アマルの流れるような切れ長の目に、瞬間、蒼い閃光が走る。 心拍数が、急速に上がっていく。 気持ちの昂ぶりから指先が震えそうになるのを堪(こら)えつつ、彼は、そのまま二本目の針金を僅かずつ動かし、ピン状の部分を針金の先端で慎重に押し上げていった。 もともと秀でた器用さをも、また、無類の沈着さをも兼ね備えた彼ではあるが、この状況下にあっては、さすがに、その真剣な横顔にも幾筋かの汗が伝い流れている。 いつしか祈るような気持ちでピンを押し上げていく彼の耳に、やがてガチャリ…――と、鈍い音が響いた。 その瞬間、針金にかかっていた圧力が一気に解放される。 「――!!」 トゥパク・アマルの瞳が大きく輝いた。 それは、己を獄中に押し込めていた重々しい西洋鍵が、ついに開錠した瞬間であった!! しかし、安堵の息をついている場合ではない。 トゥパク・アマルは、さっと懐中時計に視線を走らせた。 間もなく、番兵が巡回してくる時間である。 彼は、今しがた開錠した錠を、惜し気も無く施錠すると、足枷につながれていると装える位置まで戻って、寝台にもたれた。 錠前は、ひとたび開錠のコツを掴めば、再びそれを開くことは、さして難儀なことではない。 番兵によっては錠の具合を確かめる者もいるため、巡回時に開錠したままでおくことの方が、よほど危険だったのである。 トゥパク・アマルは寝台に身を寄せて完全に眠った振りを装いながら、瞳だけを動かして、手元の時計を確認した。 時刻は、深夜0時を回るところである。 彼は、番兵の足音に耳を欹(そばだ)てた。 今宵は、リノも、そして、セパスも巡回には訪れず、見知らぬ番兵ばかりである。 もっとも、セパスは、今頃、神殿の幻の財宝を求めて、暗黒の地下道を彷徨(さまよ)っていることであろうが…。 (そう…セパス…そなたも、今となっては脱獄のための重要な立役者の一人なのだ。 我々の命運も、そなたに懸かっている。 上手くやってくれたまえ……) トゥパク・アマルは、暗闇の中で謎めいた微笑を浮かべ、それから、堅く瞼を閉じた。 彼は、再び、番兵の足音に神経を研ぎ澄ます。 (あの番兵が去ったら、牢を出る!) 番兵は鉄格子の傍まで来ると、高々とランプをかざしながら、一見、これといった異常は窺えぬ様子の牢内を見渡した。 番兵の目からは、トゥパク・アマルは石床に座したまま、寝台の一隅に身をあずけて眠っているようにしか見えない。 それから、番兵は鍵の前に移動すると、ガチャガチャと音の出るほどに激しく揺すって、その施錠具合を確かめた。 やがて、番兵の靴音が、次第に遠くなっていく。 明かりの完全に無くなった黒ビロードのような濃密な闇の中で、トゥパク・アマルは、燃えるような瞳を見開いた。 長身が黒い影のように、音も無く、立ち上がる。 漆黒のマントが、風も無い暗黒の闇の中で翻った。 逞しい全身の筋肉が咆哮を放つが如くに、黄金色のオーラが渦巻きながら立ち昇る。 トゥパク・アマルは、先ほどと同じ要領で錠を開いていく。 一度コツさえ掴んでしまえば、破錠までは、ほんの数秒あれば事足りる。 ガチャリ…――錠の開く音。 (開いた――!) 先刻の昂ぶりも今はおさまり、逆に、彼の心は、澄んだ水底のように濁り無く静かだった。 決して、失敗は許されない――此度の脱獄をしくじれば、もう、二度と、その機会は訪れぬであろう。 彼は、己の持つ全ての神経と精神力を総動員して、周囲の気配に完全に注意を払いながら、決して音を立てぬよう、慎重に鉄格子の入り口を開けた。 ゆっくりと開いていく格子扉…―――。 それを見つめる彼の研ぎ澄まされた横顔にも、思わず、恍惚の笑みが込み上げる。 トゥパク・アマルは、ついに扉をすり抜けた。 次の番兵の巡回まで、30分弱。 その間に、同様に幽閉されている妻ミカエラや息子たちを助け出し、この牢から、できるだけ遠ざからねばならない!! 一方、その頃、牢からそう遠くはないクスコの市街地にある、贅を極めた豪奢な屋敷では、かのアレッチェが、どうにも眠れぬ夜を過ごしていた。 彼は豪華なベッドに横たわったまま、大理石のサイドデスク上に乗せられた置き時計に視線を走らせる。 既に、深夜0時を回っている。 獄中で何かあれば、速攻、己の元に知らせが入ってくる手はずになっている。 窓外に耳をすませども、風の音が微かにするのみである。 一見、普段と何も変わらぬ静寂な秋の夜であった。 アレッチェは、一旦、瞼を閉じた。 が、どうにもトゥパク・アマルの姿が脳裏に甦って離れない。 しかも、今、己の目の前に甦るトゥパク・アマルは、あの不敵なほどに沈着な面差しに、薄い笑みさえ湛えて見える。 (…――…!!!) アレッチェは夜具を跳ね除けてベッドから起き上がると、慌しく軍服に着替えはじめた。 着替えつつ部屋のドアを蹴り開け、怒声を上げて執事を呼びつける。 「即刻、馬を引け!! すぐに、出かける!!」 執事が慌てふためいて部屋から飛び出してくると、寝巻き姿のまま、屋外へと走り出ていった。 アレッチェは急ぎ書斎に移動し、鋭い手つきで拳銃に銃弾を込め、それを腰に装着する。 いつしか、彼は、奥歯をギリギリと噛み締めていた。 (くそ…!! 非常に、まずいことの起こりそうな予感がする……――!!) 今、アレッチェの中に渦巻く感覚は、かつて、反乱勃発前、トゥパク・アマルの嘆願書に対する副王の言葉を伝えるために、リマのインディアス枢機会議本部で最後に対面したあの時――あの男が、何か非常にまずいことを仕出かすのではあるまいかと、完全に直観した――あの時の突き上げるような不穏な感覚に、恐ろしく酷似していた。 今宵、それが起こるという具体的な根拠など、無い。 だが、アレッチェは、これまでの幾多の経験から、己の直観と嗅覚には完璧な自信があった。 彼は全身から赤黒いオーラをメラメラと燃え立たせながら、激しく宙を睨み据えた。 (トゥパク・アマル!! 此度は、絶対に、おまえの思い通りにはさせぬ!!) アレッチェは大股で屋敷を出て馬に跨ると、鬼のような形相で手綱を繰り、凄まじい勢いで深夜の街を地下牢の方角に駆り出していった。 他方、獄中では、ついに錠を破り、己の牢を出たトゥパク・アマルが、獣のごとくの敏捷さで廊下を走っていた。 かつて、その鉄棒のように強靭な足は、幾多の戦場を指揮して駆け抜けたが、今は、度重なる拷問づけの日々の後遺症のために、以前ほどには自由がきかなくなっていた。 彼は口惜しげに唇を噛み締めながらも、今の己にできる最速で廊下を進み、ミカエラたちが幽閉されているはずの地下一層目に向かう階段を上った。 地下一層目は、トゥパク・アマルが収容されていた二層目のような拷問部屋の連なりは無く、牢獄の房のみが廊下沿いに一直線に並んでいる。 現在、この特別な牢獄に囚われているのは、インカ(皇帝)一族であるトゥパク・アマルたち家族のみである。 ここに並ぶ房のどこかに、ミカエラや息子たちがいるはずだ。 彼は取り置いていた蝋燭を灯し、各房内を照らし出しながら進んでいく。 そして、ついに、見つけた。 (ミカエラ…――!!) 暗闇の中で、鉄格子の向こうの寝台に身を横たえていたミカエラは、音も無く現れた人の気配といえども鋭く察知し、敏捷に身を起こした。 そして、警戒の眼で、きっ、と振り向く。 トゥパク・アマルの視界の中で、やっと見(まみ)えた愛しい妻は、己自身と同様、囚われたままのすっかり磨耗した裾長のドレスを纏った姿で、その全身には、衣服も、肌身も、拷問で裂かれ傷ついた痕跡が、今も生々しい血糊と共に露(あらわ)になっていた。 かつて優雅に結い上げていた艶やかで豊かな黒髪も、今は埃にまみれ、解(ほど)けたままに肩や背を覆っている。 だが、決然と振り向いたミカエラの眼差しは、以前と少しも変わらぬ、あの戦の女神のごとくの麗しさと、燃えるような、それでいて、すっきりと涼やかな気高い光を、全く弱めてはいなかった。 トゥパク・アマルは、思わず、その目元を細めて微笑むと、早口で囁く。 「ミカエラ…! わたしだ……」 「…――!!!」 咄嗟、ミカエラの美麗な瞳が、張り裂けるほどに大きく見開いた。 そして、深く息を呑む。 さすがのミカエラも驚愕の表情で、幾度も闇に目を凝らし、それから、信じられぬ…!!――という仕草で頭を振った。 トゥパク・アマルは微笑んだまま、低く、いっそう早口で、語りかける。 「ミカエラ、ここを出るのだ。 時間が無い! さあ、そなたも手伝っておくれ」 「…――あなた?! 本当に……?!」 ミカエラは、はじかれたように寝台から飛び降りると、鉄格子の傍まで走り寄った。 その足取りは、トゥパク・アマル自身と同様、地を引き摺っている。 トゥパク・アマルは、ミカエラが受けてきたであろう拷問、その他の苦難を既に十分に推測していたものの、実際に、生々しい傷跡や後遺症を負った妻の姿を目の当たりにして、彼の胸中は激しく疼いた。 「ミカエラ……!」 トゥパク・アマルは、そして、ミカエラも、牢を出る間も惜しむように鉄格子を隔てて身を寄せ、堅く抱き合った。 互いの全身を強く激しく抱き締める腕は、今、この瞬間も、確かに生きて脈動している相手の肉体と体温と、そして、そこに宿る魂を、まるで奇跡のように、尊く、愛しく、感じ取り、受けとめる。 それから、二人は、俊敏に錠の前に移動した。 先刻、己の牢の錠を開いた時と同様の要領で、トゥパク・アマルが針金を用いて西洋錠を操作していく。 その手元を、ミカエラの手にした蝋燭が照らし出す。 此度は、錠前の正面から操作できたこと、さらに、ミカエラの照らす灯りもあり、開錠するまでに、殆ど時間はかからなかった。 開いた牢の入り口を、ミカエラのしなやかな肢体が滑るように敏捷にすり抜ける。 「あなた…――!!」 二人は、今一度、強く抱き合うと、熱く唇を重ねた。 それから、ミカエラは、あの勇壮な戦士の目になり、「息子たちを…!二人が囚われている場所は分かっているわ」と、早口に囁く。 トゥパク・アマルも頷き、ミカエラから息子たちの囚われている牢の位置を素早く確認すると、彼女に二本の針金を渡した。 そして、開錠の要領を、速攻、伝える。 「ミカエラ、そなたはイポーリトを頼む。 わたしは、フェルナンドを」 ミカエラは凛とした横顔で頷き返し、たちまち闇の向こうに姿を消した。 トゥパク・アマルも、フェルナンドの牢へと走る。 まもなく鉄格子の前まで来ると、目を凝らして中を見渡す。 (フェルナンド……!) フェルナンドは、寝台の上にぐったりと身を横たえていた。 これほどの極寒の中、擦り切れた薄い毛布一枚に必死でくるまるようにして、暗闇の中で震えながら身を縮めているフェルナンドの姿に、トゥパク・アマルの心臓は張り裂けそうになった。 まだ8歳の幼い息子には、この環境は苛酷すぎる。 「フェルナンド!!」 呼びかけても、全く反応は無い。 トゥパク・アマルは、懐から、もう一組の針金を取り出すと、先ほどと同じ要領でフェルナンドの牢を開鍵する。 開錠しながら、脳裏で時間を算段する。 急がねばならぬ! 番兵の巡回は当然ながら、あのアレッチェさえ勘付いている今となっては、いつ、何が起こるか分からぬのだ!! 彼は、フェルナンドの牢内に飛び込むと、フェルナンドの寝台の傍に駆け寄った。 少年は寝いているのか瞼を閉じ、トゥパク・アマルが近づいても何の反応も示さない。 彼は暗闇の中に目を凝らしながら、ハッと息を呑んだ。 幼い息子の傷だらけにされた頬はゲンナリと痩せこけ、表情には生気が感じられず、呼吸も絶え入りそうに、か細い。 彼は、咄嗟に少年の額に手を当てる。 激しく燃えるように熱い体温――トゥパク・アマルの切れ長の目が、険しく吊り上った。 (これほどの高熱を放置か? この幼い身なら、処刑まで、もたなくても良いと? 恐怖と孤独で精神破綻し、のたれ死んでも構わぬと?) トゥパク・アマルは、フェルナンドの髪に優しく指先を触れた。 「フェルナンド……!」 少年は、朦朧とした瞳を、やっと薄っすらと開いた。 そして、虚ろな瞳を瞬かせる。 「!…――え……?」 父上…?!――と、少年の唇が、震えながら動いた。 「そうだ。 わたしだよ、フェルナンド…! そなたに、これほどの辛い思いをさせて、本当にすまなかった」 フェルナンドは、平素は天使のような愛らしい瞳を、だが、今は、カッと険しいほどに見開いて、己の脇に跪いている父の腕に掴みかかった。 「父上?! う…そ……! こ…これは、夢なの…?!」 「夢ではない」 トゥパク・アマルは、息子の燃えるような頬に口づけた。 「本物の、そなたの父だ」 「!!」 フェルナンドが身を起こそうとした瞬間には、トゥパク・アマルの強靭な腕が、ふわりと少年の体を抱き上げていた。 「父上!!」 「さあ、フェルナンド。 ここを出るぞ!」 ギュッと首に抱きつく少年の、高熱に焼け付くような全身を抱いたまま、トゥパク・アマルは、風のような敏捷さで牢を出た。 廊下に出ると、ミカエラに牢から解放された長男イポーリトが、やはり疲弊しきった体をミカエラに支えられるようにしながら、こちらに向かってくるところであった。 イポーリト…――!! トゥパク・アマルの胸は、再び、ぐっと熱くなる。 イポーリトは足を引き摺りながらも、既に大人びた青年の風貌を宿し、輝くような瞳で父を見つめながら、懸命にこちらに走って来ようとしている。 「イポーリト!!」 トゥパク・アマルは逞しい片腕にフェルナンドを抱いたまま、もう片腕を大きく開いて、一心に飛び込んでくるイポーリトをしっかりと受け留めた。 「父上!!」 今、トゥパク・アマルの腕に身を寄せるイポーリトは…――トゥパク・アマルの長男として、言ってみれば、インカ皇帝直系の末裔であり、本来ならば、次期皇位継承者――その彼に対する敵方の風当たりは、どれほどに強かったことか。 しかも、イポーリトは、実際、本陣でもミカエラを助けて反乱にも関わりを持っていた。 そのような彼に対しては、まだ少年といえども、敵方は、恐らく容赦無い尋問を加えていたに相違ない。 利発で気丈なイポーリトのこと……どれほどの身体的、精神的苦痛にも、健気(けなげ)に耐え抜いてきたことであろう――しかし、如何なる境遇や立場にあろうとも、その実情は、まだ、ほんの12歳の子どもにすぎないのだ。 トゥパク・アマルは、イポーリトを、しかと胸に抱き締めた。 「イポーリト、真に良くぞ生き延びた」 「父上……!」 己に強く身を寄せているイポーリトの全身を、力を分け与えるように抱き寄せながら、その長男の、ミカエラに似た美しい横顔に、口づける。 「さあ、イポーリト、ここを出るぞ」 「はい!! 父上!!」 イポーリトは涙の光る瞳を輝かせながら、笑顔で真っ直ぐに父を見上げ、力強く頷いた。 こうして、ついにトゥパク・アマルたち家族4人が獄中で再会を果たした頃、外界では、あのアレッチェが、鬼のような形相で牢番たちの詰め所に馬を乗りつけていた。 まさか、アレッチェが、このような深夜に突然やってくるなどとは夢想だにしていなかった番兵たちは、否、それ以前に、詰め所に飛び込んできたアレッチェの、その鬼気迫る険しい形相に、ギョッと身を聳(そび)やかせて椅子から飛び上がった。 そんな番兵たちに、アレッチェの怒声が飛ぶ。 「皆でこぞって、呑気に何をしている!! トゥパク・アマルは、どうなっているのだ?! 巡回は?!」 番兵たちは、目をパチクリさせながら、それでも、身の潔白を懸命に明かそうとでもするように、慌てて応える。 「いえ、通常通り、先ほど0時の巡回をすませたところです。 特に、牢内に異常はありません。 間もなく、次の巡回に、牢に下りることろですが…」 「異常は無いだと……?!」 アレッチェは番兵の言葉に安堵するどころか、この無能め!!――と、相手を焼き殺すほどの激しい眼で、番兵たちを睨み据えた。 「すぐに、牢内を調べるのだ! 銃を忘れるな!! 一人は、即刻、門前の部隊に応援を呼びに行け! 急がんか!!」 彼は、冥界の魔王のごとくにメラメラと髪を逆立てながら、凄まじい騒音と共に、いきり立った腕を机上に打ち下ろす。 そして、先陣きって、自ら、地下牢へ続く鉄門に向かって怒涛の勢いで走り出した。 ◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第八話 青年インカ(8)をご覧ください。◆◇◆ |